能王山盛圓寺

神奈川県横浜市青葉区すみよし台31-8

盛圓寺とは

本堂
山号
能王山(のうおうざん)
寺号
盛圓寺(じょうえんじ)
創立
正応4年(1291年)
本尊
一塔両尊
尊像
祖師(日蓮上人)、四菩薩、四天王、七面天女鬼子母神、他境内の庚申塚に帝釈天を祀る
開祖
蓮華阿闍梨 日持上人
開堂
盛圓坊日孝上人
新本堂建立
昭和43年(1968年)
新客殿建立
平成7年(1995年)

盛圓寺縁起

時は鎌倉時代、日本仏教界に新風を呼ぶ活躍をされた高僧、日蓮上人はその後入滅の際に多くの弟子の中から六人の高弟を選んで後を託されました。この六人を六老僧と申します。
その中の一人、日持上人は諸国布教を志し、方々で説法をしました。すると、その説法を聴いた多くの人々が帰依して信者となり、中には出家して弟子になる人もいました。そこで信仰の道場として寺を建てることにしました。
しかし、 日持上人自身はさらに教えを広めて歩くため、寺に留まることができません。そのため弟子と信者に寺を任せ、自分は布教の巡行を続けました。このようにして日持上人は当地にも至り、やはり信者を得たので弟子の日孝上人に寺を建てることを任せて、また旅に出られました。これが当山、盛圓寺の始まりです。
その後、戦国の世に一時、衰微するときもありましたが、日授律師の中興により天正年間から隆盛を保ち、江戸時代には領主の旗本石丸家から梵鐘の寄進も受けました。しかし、残念ながらこの梵鐘は太平洋戦争のときに戦時供出で失われました。
このように当山は、時代の流れに揺られながらも信者さんや地域の方々に守られ、親しまれて、現在まで至っております。 近年は、参詣の皆様や地域の方々に喜んでいただけるよう、四季の花や草木のあるお寺として境内の整備を進め、また、ご高齢の方にも参詣され易いような設備の導入に努めております。

合掌
能王山盛圓寺第三十三世住職 遠藤雅裕

盛圓寺本堂

あれこれの話

七面天女

七面天女

『七面天女』は、盛圓寺に祀られる守護神の一体です。
日蓮上人が晩年を過ごされた身延山で法華経をお読みになっているときのことです。そこに、ひときわ熱心に耳を傾けている見慣れぬ妙齢の女性がいたのです。
お弟子さんや信者の方々が不思議に思う中、日蓮上人が何者かと尋ねました。すると、その女性は、身延山の一つである七面山の池に住む龍であり、かつて法華経の行者を守護する誓いを立てた天女であったことを告げたのです。 そこで、上人は側にあった花瓶に女性の姿を映しました。すると、みるみる姿が変わり、彼女は赤い龍となったのです。
ありがたいお経によって功徳を得ることができた彼女は、身延山や日蓮上人とその信者の守護を誓って、静かに池へ帰っていきました。こうして、美しい龍は身延山の守護神として崇められるようになったそうです。
七面天女のルーツについては、さまざまな説が伝えられています。
弁財天や吉祥天という説もあれば、また、法華経に登場する8歳の龍女であるという説もあります。いずれにしても、その高貴な美しさは、同時に悪しき者を祓う毅然とした力強さと重なってみえます。

鬼子母神

鬼子母神

鬼子母神とは、かつて訶梨帝母(かりていぼ)という夜叉(やしゃ)《鬼神》で、人の子を捉えては喰うので人々から恐れられていました。しかし、自ら多くの子((五百人とも千人とも)を持つ母でもありました。そこで、お釈迦様が人々を救うために一計を案じ、彼女が溺愛する末っ子を隠してしまいます。彼女は狂乱して我が子を探し回りますが見つけられません。落胆して嘆き悲しみます。
すると、お釈迦様が現れ、「多くの子のうちの一人を失ってもこんなにつらいのだ。己に子どもを喰われた親の悲しみ苦しみが解るだろう。」と諭して末っ子を返します。これにより改心した彼女は、世の子ども達を護る誓いを立て、安産・子育ての神として祀られることになりました。

盛圓寺の鬼子母神

「恐れ入谷の鬼子母神」という言葉をご存じでしょうか。
冗談めいて、「恐れ入りました」と言うとき、東京入谷のお寺に祀られる鬼子母神とを掛けた言葉です。鬼子母神像には、恐ろしい形相で合掌する鬼型と微笑んで幼子を抱く天女型があります。入谷の鬼子母神はもちろん怖い鬼型で人の心の中の邪悪を追い払っています。盛圓寺に祀る鬼子母神は天女型でお参りに来る子ども達を優しく見守っています。その鬼子母神を取り囲むように小型の十人の女神がおります。これは十羅刹女(じゅうらせつにょ)といい、鬼子母神の娘達です。鬼子母神は、「法華経」というお経では子ども達だけでなく、信心の篤い人々も守護する神となっています。そのため、法華経を尊ぶ日蓮宗、法華宗などのお寺で祀られることが多いのです。

庚申塚

庚申塚

昔、人の体の中に三尸(さんし)の虫というのが住んでおり、六十日に一度の庚申(こうしん)の日に人が寝てしまうと中から這い出し、天の神にその人の行状を報告しに行くという言い伝えがありました。そこで、これを信じる人たちが庚申の日は寝ずに夜通し語り合って、虫が外に出られないようにしようという集まりがありました。これを庚申待(こうしんまち)、庚申会(こうしんえ)といい、その仲間を庚申講(こうしんこう)といいます。
もっとも、この集まりは純粋な信心のためだけでなく、娯楽の少なかった時代に飲食して一息つく口実だった面もあるようです。しかし、天の神を敬う気持ちが基にありますから神を祀るために石塔などを建てたものが庚申塚です。庚申待は元々、中国の道教の教えに始まり、祀る神も天帝、上帝という中国の神様でしたが、日本に入ると神道系では猿田彦、仏教系では青面金剛(しょうめんこんごう)または帝釈天(たいしゃくてん)になりました。

盛圓寺の庚申塚

柴又の帝釈天はあの「寅さん」でも有名ですね。
盛圓寺の庚申塚に祀るのも帝釈天です。
帝釈天は仏法守護の神で、四天王の上司です。
庚申塚の石塔には大きく帝釈天王と刻まれ、その下に三匹の猿が彫られています。見ザル、聞かザル、言わザルです。つまり都合の悪いことは見なかったこと、聞かなかったことにして神様には言わないでくれ、というわけです。それなら、はじめから悪いことはしなければ良いのですが、そうもいかないもの。少しのことは見逃して下さいとの人情から生まれたサル達です。そのせいか、少しおどけた姿を是非、見てやって下さい。しかし、帝釈天の目は欺けません。石塔の上部にはお日様とお月様も彫られています。つまり、昼も夜も神様には全部、お見通しです。

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